Hostile Intelligence: Reflections from a Visit to the West Bank (Japanese Version)

by Tatsuhiko Haga

The Japanese translation of "Hostile Intelligence: Reflections from a Visit to the West Bank" by Tatsuhiko Haga

Reprinted with permission from https://www.ibunsha.co.jp/contents/graeber03-2/

 

タイトル

敵対的インテリジェンス――ヨルダン川西岸地区訪問記

 

著者

デヴィッド・グレーバー

 

訳者名

芳賀達彦(はが・たつひこ)

1987年生まれ。大阪府立大学大学院博士後期課程修了。専攻は歴史社会学。翻訳にデヴィッド・グレーバー「支配の基礎構造について」(『思想』2024年6月号、岩波書店、高橋侑里との共訳)、デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店、酒井隆史・森田和樹との共訳)、デイヴィッド・ライアン『ジーザス・イン・ディズニーランド――ポストモダンの宗教、消費主義、テクノロジー』(新教出版社、大畑凜・小泉空・渡辺翔平との共訳)など。

 

掲載元

https://davidgraeber.org/articles/hostile-intelligence-reflections-from-a-visit-to-the-west-bank/

(当初はhttps://internationaltimes.it/hostile-intelligence-reflections-from-a-visit-to-the-west-bank/に掲載されたものですが、翻訳の許可は上のURLでグレーバー・インスティチュートから得ています)

 

解題

本稿は、人類学者・活動家として知られるデヴィッド・グレーバーが、2015年7月30日にInternational Times上に投稿したオンライン記事“Hostile Intelligence: Reflections from a Visit to the West Bank”の全訳である。著者のエスノグラファーとしての洞察力を存分に発揮しながら、パレスチナ自治区の占領実態をその内側から活写したものが本稿であるが、著者自身のSNSや関係者のブログ等の周辺情報によると、(両名ともに映像作家・活動家・研究者である)Nitasha DhillonとAmin Husainを主要メンバーとするMTL Collectiveが敢行したパレスチナ自治区のドキュメンタリー映像(Unsettling)の撮影旅行に、かれらと親交のあった著者が同行したことで執筆に至ったもののようだ。

本稿のHostile Intelligenceという原題について付言すれば、一般に「知能」や「知力」と訳されるintelligence(インテリジェンス)は、(敵対相手の)「諜報活動」や「機密情報」を意味する語でもあるが、ある種の信仰や神秘主義(オカルト)の文脈においては、しばしば(肉体を有せず、姿を見ることのできない)超常的存在を示すさいにもintelligenceの語が用いられる。本稿では、これらの意味の幅を意識しつつ、intelligence、intelligentという語を文脈に応じて訳し分けている。また、著者が『負債論』(第五章)にて述べているように、「接待」(host)・「歓待」(hospitality)と「敵対」(hostile)という対極の行為を指し示す語彙は、ともにhostis(見知らぬ相手)という同一のラテン語から派生した語彙だという点にも留意すべきであろう。

生涯にわたって革命と自由を問いつづけた(というか、それらを愛してやまなかった)著者が、中東のシリアに誕生したロジャヴァ革命共同体について非常に多くを語ったことは知られている。その一方で、同じく中東のパレスチナ問題やイスラエル占領についてグレーバーが語った文章はさほど多くないようにみえる。ゆえに、いくつかの機会の重なりから生まれた本稿は、ある意味ではたいへん貴重な内容であり、またいわずもがな、きわめて時宜にかなったものだといえよう。

 

本文

ナーブルスの街には、通りという通りにメンズ用のヘアサロンがあるようだった。おびただしいばかりの店の数である。ほとんどのサロンが夜中の2時を過ぎても店を開けており、真夜中でも煌々としている場所というのはモスクのほかにはここだけであった。店内の様子をうかがってみると、いつ覗いてもバッチリ髪を整えた青年が4、5人でかたまっていて、だれかの散髪を見物しながら、たまり場としていた。ふしぎなのは、女性用のヘアサロンが一軒も見当たらないことだった。街には女性向けの化粧品や整髪剤の派手な広告が貼ってあるのを見かけるし、道行く女性はしばしばブロンドの髪色をしている(実際、ナーブルスにはブロンドに染めたパレスチナ人があまりに大勢いて驚かされる。小さな子どもでさえブロンドヘアーをしているのだ)。にもかかわらず、肝心のヘアサロンが一軒もないのである。わたしは、一体どうしてなのかと友人に尋ねてみた。するとかれは、次のように説明した。パレスチナ社会というのは伝統的に、ベイルートをのぞけば、アラブのなかで一番リベラルな社会だとみなされてきたのであり、一昔前であれば、若い女性が外出時に頭を覆うなどことなどけっしてなかったのだが、ハマスが政治勢力として台頭してくる90年代にはいると、いさかさか事情が変わってきたのだ、と。ただし、女性向けのヘアサロンの場合には、もっと別の裏事情が絡んでいるのだという。80年代頃、イスラエルの諜報機関(intelligence)が住民を利用しようと工作を開始したのだという。気絶薬を混ぜたあまいお茶を使い、女性たちのあられもない姿をカメラにおさめると、その夫に脅迫状を送りつけ、工作員として内通するよう脅したのだという。以来、女性用ヘアサロンは表通りからは姿を消し、女たちはもはや知らない人間の出す飲み物に口をつけることはなくなったそうだ。

「それって、マジで言ってる? まるで絵に描いたような都市伝説って気がするんだけど……?」

これが、この話を最初に聞かされた瞬間のわたしのリアクションであった。だが、ナーブルスの街に暮らすパレスチナ人たちは、現実に常軌を逸した出来事が起こるような環境にその身を置いている。かれらへの工作を画策しているスパイや内通者や治安部隊が、げんに大勢いるのだから。心理学や社会学の学位を取得した無数の人間たちによる盛大な画策によって、社会の信頼関係は破壊され、人びとの絆は引き裂かれてきたのである。流布する噂は数えきれない。そのうち事実は一握りにすぎないだろう。かといって、一体だれがその真偽を区別できるというのだ?

いわずもがな、この〔真偽不確かな〕点こそ、一連の状況につきまとう問題の一端である。かつて、東ドイツの秘密警察シュタージはこんなテクニックをあみだしている。反体制派の人物の寝込みを見計らって部屋に忍び込み、家具の模様替えをして出てゆくのである。すると被害者は、きわめてやっかいな状況に叩き込まれることになる。部屋にスパイが忍び込んで模様替えだけしていった、などと打ち明ければ、気でも狂ったかと言われるのがオチだからだ。しかし、だれにも打ち明けずとも、じぶん自身の正気をしだいに疑いはじめるようになる。パレスチナに身を置いてみると、ひとつの国(country)そのものが、このような扱いを受けていると感じる瞬間がやってくる。

ただし、先の話の場合には、すくなくともうわさの一部は事実であったことが判明している。何者かが立ち上げたウェブサイトに、罪の意識に苛まされるモサド工作員からの告白が匿名投稿され、じっさいにヘアサロンのお茶に薬物を使用したとの証言がなされたのである。

わたしの友人のアミンはこんなふうに語っている。「前々から感じていたことなんだけれども、ヘッドスカーフで顔を隠すような宗教的保守主義への転向がはじまったのは、80年代や90年代じゃなかったとおもう。ハマスが政治台頭した時期じゃないんだよ。あれは四六時中監視されている事実に対する、一種の抵抗だったんじゃないかと考えてるよ。あたり一面を見渡してみようか。どの丘にも実質的にユダヤ人の入植地がおかれている。だけど、ここから見えるのは建物の影でしかない。無機質で無表情なゲーテッドコミュニティが構えてあるばかりで、そこに暮らしているはずの人間の様子はまるで見えない。お隣には鉄柵で囲まれた軍事基地が控えていて、見張りの塔が伸びている。塔の中に監視がいるのかどうかもわからない。その隣には、壁としか言いようのない壁がある。おれたちを逃がさないための壁なんじゃないかって、もっぱらの話題になってる。そして、実際そのとおりなんだから腹が立ってしょうがない。勘弁してもらいたいのは、あの壁のせいで視界が遮られることなんだ。隣でなにが起きようがわからないんだ。イスラエル側には軍事用と居住者用とで、専用道路が二車線あるみたいだが、おれたちアラブ人の通れる道からは、どちらの道路も目にすることはできない。あちこちからチラッと覗くのがせいぜいだ。入植者道路とアラブ側の道路が交わる場所もあるにはあるが、そこは警備が立っていて、イスラエルの右翼政治家のポスターが張り出してある。あとは、ヤムルカ〔伝統的なユダヤ教徒の帽子〕をかぶった子どもらが、車に乗りたそうにしているかな。そして、それ以外にはまったくなにも目に入らない。反対に、こちら側は向こうから覗かれ放題ってわけだ。運転中でも散歩中でも、こっちの一挙手一投足はぜんぶお見通しだ。どこから見られているのかさえわからない。たとえ相手の姿が見えたとしても、こっちには全体を一望することが絶対にできない構図になってる。じぶんの住んでいるちっぽけな街と、羊を放すせまい土地と、そういう離れ小島が並んでいるだけの、せまくるしい穴ぐらに閉じこめられていると思ってくれ。まともな地図もないし、あったとしても間違っているか、古びて用をなさないから、こちら側からは全体を見下ろすことが絶対にできないようになっている。それだから、みんな顔を覆いだすようになったんだ。外出も控えるようになったし、女性たちだって髪型を表に出さなくなった。これはただの〔態度表明の〕身ぶりにすぎないが、支配の存在を示すためのささやかな手段なんだ」。

この語りからは、パレスチナでの暮らしぶりのなんたるかを感じとることができよう。こちらの存在を左右しうる禍々しい敵意をもった知的存在(intelligence)が、片時も休まることなく意識され続けるのである。そして、そうした知的存在は、究極的にはこちらの幸せを願ってはくれないのだ。その姿を目にしたものは誰もいない。けれども、どんなものかは想像にかたくない。高い学歴と教養で身を固めた男女からなる頭脳集団なのであろう。空調のきいたオフィスでミーティングをひらき、パワーポイントのプレゼンをし、報告書を持ち寄って複雑な計画とシナリオを練っているのであろう。とはいえ、はっきりしていることは、これらの人間たちがじぶんという存在に対して明確に敵対しているということのみであって、その考えや行動は得体が知れず、噂や憶測に頼ることしかできないのである。

1950年代に、北朝鮮はきわめて効果的な拷問のテクニックを編み出し、それによって捕らえたアメリカ空軍の捕虜から、実際には身に覚えのないものも含め、ありとあらゆる非人道的行為の自白を引き出すことに成功したという。だが、このテクニックは捕虜たちから終始拷問と認識されることはなかったのである。そのテクニックとは、いたって単純なものだった。捕らえた捕虜に、わずかばかり不快に感じるようななにがしかをさせるのである。たとえば、椅子に浅く腰かけさせるとか、少々窮屈な体勢で壁にもたれかけさせるというようなことだ。ただし、これをきわめて長時間にわたって実行するのである。8時間も経過する頃には、なんでも吐くからもう勘弁してくれと被害者が叫んでいることだろう。とはいえ、ハーグ国際司法裁判所に訴えて、わたしは一日中ずっと椅子に浅く腰かけていたのですと答弁したところで一体どうなるというのか。被害者たちでさえ、じぶんを監禁したものたちを拷問官と表現するのに及び腰であったという。韓国の友人によれば、このテクニックはもともと幼児の躾方法として朝鮮半島に古くから伝わる懲罰の手法をひときわ残虐にしたものらしい。このテクニックを知ったCIAは、大変な興味をそそられたようで、自身の拘置所での巨額の予算を投じた臨床試験に踏みきっている。

いま一度くりかえすならば、パレスチナにおいては、ひとつの国そのものが、このような処遇のもとにおかれているのだと痛感させられるのである。あからさまな拷問もまた起こっていることは論を待たない。げんに人びとは撃たれ、殴られ、傷つけられ、暴力的な虐げを受けている。しかし、わたしがここで述べているのは、あからさまではない拷問の存在なのである。あたかも、日常の暮らしそのものが、さまざまな耐えがたさを痛感させるべく仕向けられているかのようだ。それも、人権侵害だとは断言しがたいようなやり口によって、である。いつも水が不足気味である。シャワーは軍隊のような手際が求められる。何事も、とかく許可が下りない。行列につぐ行列である。なにかが故障したとしても、修理の許可は下りないし、下りたとしても替えの部品は手に入らない。それぞれまったく異なる法体系が四種類も併存していて(オスマン帝国法、イギリス法、ヨルダン法、イスラエル法)、どの場合にどの法律が適用されるのが、どんな文書を用意しなければならないのか、それがはたして受理されるのか、まるで要領を得ない。あまつさえ、ほとんどの規則が理解困難なものだというのに。たかだか20キロ離れた恋人と会うのに、車で8時間も運転しなければならず、その道中ではもれなく、こちらを人とも思わない連中から半ば意味不明な言葉で怒鳴られた挙げ句、鼻先に機関銃を突きつけられるはめになるだろう。ふたりの逢い引きはもっぱら電話越しにかぎられる。そして、それすら時間制限があるのだ。検問付近は前も後ろも渋滞で、ドライバー同士の喧嘩や罵声が絶えず、なんとか他人に八つ当たりせぬよう耐えている。地中海まで12~15マイルそこらの地域に暮らしながら、絶好の海日和ですら浜辺に近づけない。壁をよじ登りでもしないかぎり、海岸の姿を拝むことはできないのである。よしんば壁を越えたとしても、その瞬間から治安パトロールとの追いかけっこを覚悟しなくてはならない。もちろん、実際に海で泳ごうとする若者はあとをたたないが、その場合、海水浴は銃弾の恐怖と隣り合わせの命懸けのものとなる。もしも、あなたが商店主や、労働者、運転手やタバコ農家や事務員だったとしたら、まさに日々の生活の糧は小さな屈辱の連続となるだろう。売り物のトマトは2日間の差し押さえをくらい、放置された挙げ句カビにまみれるのだ。そして、それを背後でみている誰かがほくそ笑んでている。子どもを拘置所から出してくれと頭を下げなくてはならない。看守に懇願しにいくと、当の看守の気まぐれによって、いま石を投げたな白状しろと詰問されたのち、タバコも吸えないコンクリートの独房に突然押し込まれるのである。部屋のトイレは詰まっている。そこではたと気づかされることになるわけだ。生きているかぎり、こんな暮らしが一生続くのだ、と。「政治プロセス」などどこにもなく、終わりはけっして訪れない。神の介入でもないかぎり、こういう不条理が残りの人生のあいだずっと続くのだと覚悟させられるのである。

しかしながら、たえかねた誰かが、たとえば検問の兵士を刃物で襲ったり、ユダヤ入植者への銃撃計画に加わったとしても、そうした過度の凶行を弁護するに足るような明確な〔人権侵害〕行為を挙げることはできない。

元来、パレスチナはグノーシス主義の生まれた土地であった。人間存在が暮らす世界は敵対的デミウルゴスによって創造された世界であり、この世界は人間を惑わし混乱させるためだけの不条理な戒律で満たされている。それというのも、真の神はなんらかの絶対の、われわれにとって不可知の場所に存在するからだという信仰である。だが、かくのごとき腐敗した不条理な世界観が、ひとつの政治体制の意図的に設計した統治システムによって現実化している事態に、果たしてどんな意味があるというのだろう。

この戦略が不可思議なのは、たとえイスラエル側の視点に立ったとしても、その論理を理解することが不可能なためである。90年代をふりかえってみれば、イスラエルが近隣諸国と和平を結ぶ機会はたしかにあった。イスラエルに提示された条件は政治的にも経済的にも破格なものだった。イスラエルが1948年以来の難民の大量帰還を承認すると期待したものは誰もいなかったうえ、一握りの入植地を手放すだけでよかったのである。しかも、イスラエル市民の大半から暴力的な狂信者たちの居住地だと考えられていた地区でよかった。そこを一掃し、その実体なき国家の残骸物をPLOに明け渡せばおしまいのはずだった。しかし、かわりにイスラエル政府は、二国家間解決などという外交上の口実――いまや誰ひとり信ずるものなどないが、それが実現可能だという建前によって何百という高給官僚がつくられた――のもとで、西岸地区を軍事基地の迷宮にし、ユダヤ人専用のコミュニティに変えるなどとしたために、地球上のほぼすべての国から国際法違反だと非難されている。このような計画が破局に至らないとうそぶくのは、どう考えたとしても無理があるからである。すでに、世界各地のイスラエルに対するイメージは、ホロコーストを生き延びた砂漠に花を咲かせる理想家たちの集いから、年端もゆかぬ少年を科学の力で凶暴化させる話の一切通じない連中に変わってしまった。周辺諸国と経済的にも政治的にも激しい対立を繰り返した結果、イスラエルは急激に失墜しつつある一帝国からの絶対的援助に、ほとんど全面的に依存するまでになってしまったのである。

ここに一体どんな展望がひらけるというのだろうか。

それでは、イスラエル側の長期戦略というのは、本当のところどんなものなのか?

答えがあるとすれば、そもそも、そんなものは持ち合わせていないというのが答えのようである。イスラエル政府はもはや、将来に備えた長期戦略など有してはいない。いわば、気候変動問題に関してエクソン・モービル〔Exxon Mobil 米国最大手の石油会社〕がなんら長期戦略など用意していないようにである。もしもアメリカの覇権が崩壊するか、援助が打ちきられたならば、そのときはなにか手を打たねばならないだろうと、そう理解しているだけにみえる。もちろん、イスラエルのシンクタンクの人間が、報告者やら計画書やらをもってブレーンストーミングをひらいているのもまた疑い得ないのだが、しかしそれらは基本的に後付けのものでしかない。1967年以来のパレスチナ占領を突き動かしているものは、いかなる大戦略に基づくものでもなく、政治と経済の短期的都合が最悪のかたちで合流したようなものにすぎない。

なによりもまず、入植地問題について考えてみよう。もともと入植地建設は比較的孤立したプロジェクトにすぎなかったのであって、たとえ大きな予算が集まったとしても、かつては熱狂的信者(religious zealot)による献金の場合にかぎられていた。いまや、猫も杓子も入植地建設を中心に回っている。政府によって無尽蔵の資金が投入されているのだ。一体なぜか? この疑問の答えは、すくなくとも90年代以降のイスラエルにおいて、入植地建設が一種の政治的魔力をもつことに右翼政治家が気づいたことにある。入植地建設に金を投じれば投じるほど、ユダヤ人有権者たちは右派に票を投じるのである。その理由は単純である。イスラエルは地価が高いのだ。1948年以降の境界内で家を建てようとすれば、法外な額の予算が必要となるだろう。もし、とりたてて資産をもたない若者だとしたら、選べる選択肢は年々狭まり、いまや二択しかない。中年にさしかかっても両親のもとで暮らすか、違法入植地に部屋を探すかの二択である。後者の場合、家賃はおそらくハイファやテルアビブの3分の1程度ですむだろう。舗装のきいた道路に学校、生活必需品、社会保障も手に入ろう。この点からすると、西岸地区に入植している者たちの圧倒的大半は、イデオロギーからではなく経済的理由からそうしているということになる(この点はとくにエルサレム周辺にあてはまる)。しかし、こうした人間たちがどんな人びとなのかをよく考えなくてはならない。かれらは苦境に立たされた若者や学生たちであり、あるいは高い教育を受けた若い親たちにほかならない。つまり、一昔前であれば伝統的に左翼を構成してきた人びとなのである。これらの人びとが入植地に足を踏み入れたとたん、知らず知らずのうちにファシストめいた思考が否応なく絡みつきはじめる。入植地とは、右翼意識を醸成する独特な巨大装置なのである。敵対的領域に身を置くものにとって、民族ナショナリズムの空気に感化されずにいることは非常に困難なことだ。自動小銃の訓練が当たり前として行われ、地元住民には気をつけろとの注意喚起がひっきりなしに飛び交うのだ。なにせ、お隣さん連中と来たら、〔入植者建設のせいで〕飼ってた羊を殺処分するはめになっただの庭のオリーブの木を切り倒されたとかいって殺気立ってるみたいだからな、というぐあいに。結果的に、選挙ではことごとく従来の左翼候補者は敗れ続け、宗教者やファシストの政党が、あるいはファシストがかった政党が大きく票を伸ばし続けることになる。目先の選挙のことしか考えられない政治家というものに対して、こうした誘惑から逃れろというほうが無茶なのである。

しかし、パレスチナ人に対する対外政策の場合はどうなのか?そこには一体どんな意味があるというのだろうか?

くりかえせば、西岸地区の政策を練っているイスラエル側の人びとは、けっしてバカでないことを強調せねばならない。きわめて頭脳明晰(intelligent)な人間たちなのである。大半が高い学歴を有しているのであって、軍事統治の社会学やその歴史、市民統治の人文科学に通暁している人びとである。被征服者の平定と同化とにおいて効果を上げた占領手法など勝手知ったるものである。難しいものなどなにもない。同化政策、分割統治、慎重に計算された一定のアメとムチといった標準的な作戦があり、占領者に対する依存関係と複雑な忠誠関係をもたらすための一定の戦略が存在するのである。そして、イスラエル側の戦略を練っている者たちが、これらを利用すべきでないと判断しているようにもみえないのだ。にもかかわらず、かれらは戦火が起こることをあえて承知のうえで、一切のアメを取りあげ、巨大なムチを振り上げているのである。じっさい、パレスチナ側でディアスポラの政治のトップの地位にあったPLOの指導層はイスラエル当局との融和政策を採っていた。アラブ市民に対する取り締まりに協力することへの合意の交換条件として、レバノンや北アフリカといった以前の活動拠点からの少数の帰還権を獲得したほか、いくつかの特権をイスラエル当局に認めさせたのである。そこから、かれらはかつての急進左派をNGOに取り込むようにして支援金をかき集めていった。一部の富裕なアラブビジネスマンは検問を自由に出入りし、大口の不動産取引で潤っている。ディアスポラの弁護士や医師たちから使い道のない身内のもとへと金が注ぎ込まれるため、ちょっとした住宅バブルすら起きている有り様である。この結果として、パレスチナ当局の管轄地域に、赤い中華屋根のコンクリート製の豪邸が際限なく建て並ぶことになった。水不足のためにいまだトイレすら流れない豪邸にすぎないのだが(水はすべて入植地のスイミングプールに流れるのはいわずもがなである)。皮肉なことに、農業や商業や軽工業といった従来の産業が敵対的「規制」の数々を通じてことごとく破壊されてからというものの、この領土はイスラエルの最大の輸出市場となっている。そして、一連の話からは、パレスチナに流れ込んでくる金の流れを、あらゆる手をつくしてみずからの懐にせしめようとする、イスラエル側の意図が透けている。とはいえ、この分割統治関して注目に値するのは、やはり、そのあまりのみみっちさなのである。占領軍の同化政策において、その経済的利益にあやかろうとする御しやすいミドルクラスを作り出すことは、経済的には非常に容易なことである。しかし、イスラエル当局は、意図的にこの手法を採択しないと決定したようにみえる。

ここでも、入植地建設の場合と同じように問わなくてはならないと、わたしは考えている。入植地とは、民族ナショナリズムを醸成する一種の装置であった。それは基本的に政治的な都合のために出資されていたのである。ならば、占領当局はパレスチナ人に対して一体なにを望むのかと問うてみよう。あきらかに、従順で穏健なパレスチナ人など、かれらは求めていない。もし、かつての敵との和平を望むのであれば、相手の日常が絶え間ない苦痛と恐怖と屈辱の連続となるように仕向ける道理などまったくないのだ。じつに、パレスチナで子育てする人間たちは年端もゆかぬわが子が学校から無事に戻るかどうかを案じなければならず、もしかしたらすでに目隠しと手錠を嵌められ、冷たい独房に倒れているのではないかと、気が気でないのである。ここに筋のとおる答えがあるとしたら、イスラエル勢力はパレスチナ人に殺気立ってほしいのである。抵抗が起こってほしいのであり、とはいえ、政治抵抗がまったく無効となるような状況を同時に確保したくもあるのだ。イスラエル側が欲するのは、日常的には言いなりであるが、定期的に暴発するようなパレスチナ人なのである。個別的であっても、集団的であっても、なんら戦略や協調性をもたず、外界の目には理性を欠いた悪魔的凶行としか映らない抵抗をイスラエルは待ち構えている。

だとすれば、なぜそんなものを待ち望むというのか? わたしが話したことのあるアラブ政治の評論家たちはみな、その答えは自明だと考えていた。イスラエル経済の大部分はハイテク兵器産業と精密電子機器の「セキュリティ」供給に依存している。今日のイスラエルは、アメリカ、ロシア、イギリスに次ぐ世界第4位の兵器輸出国なのだ(近年になってフランスを追い落とし5位に陥落させている)。これほどの小国にとっては快挙というほかない。ここで評論家たちが補足するのは、イスラエル兵器とセキュリティシステムには、他の競合相手にはない大きな強みがあるということである。イスラエル企業が宣伝文句において負けることは絶対にないというわけだ。こちらの兵器は大規模な実地試験が完了してございます。こちらの新型炸裂弾はガザの地下通路の破壊に活躍いたしました! こちらの新型の無差別催涙ガスの散布装置は、バラタ難民キャンプにて抗議者たちに大変効果があったものでございます。こちらのレーザー検知器は入植者の被害を幾度も未然に食い止めております。イスラエル資本にとって、いまやアラブ人の抵抗は決定的な経済資源と化したのであり、もし鎮静化したならば、輸出経済はただちに打撃を被ることになるというわけだ。

もし、いじめというものの本質が、被害者の反応を逆手にとって発端の加害行為じたいを遡及的に正当化すべく計算された加害の形式なのだとすれば、イスラエルによる占領は、いじめをもって、それを統治原理に転用してしまったといえる。すべてが挑発のために存在しているのである(Everything is designed to provoke)。日常そのものが挑発といってよい。それらは醜悪かつ屈辱的なものである。しかし、それらは同時に明白な「加害」とは言いがたいギリギリのラインをくぐるよう計算された挑発であって、どこにも「加害」などないという主張すらありうる。だが、これはあたかも、教室のいじめっ子が被害者をネチネチと小突き回すうちに、ついにキレた被害者が虚しく暴発し、校長室まで連れていかれるという、あの構図とおなじなのである。

わたしはパレスチナ社会における人生の核心を理解するようになって、ようやく、かれらの苦しみを真に知るに至った。〔かれらにとっては〕歓待こそすべてなのである(Hospitality is everything)。もちろん、これはあとから知ったことなのであるが、わたしが最初にナーブルスの街を訪れた日、アメリカ人の撮影クルーを満載したワゴン車を見るなり、事情を理解しようとした付近一帯の住民全員が携帯電話を片手に話しかけてきた。よそからやって来たあなた方は一体なんなんだ。一体なんの機材を運んでいるんだ。一体なんの目的でこの街に来たんだ。だが、わたしたちが地元のお宅にお邪魔したその瞬間に、すべてが変わった。すぐに近隣の自治会がひらかれ、30~40名の有志の若者が集まると、もしもパレスチナ当局やイスラエルの治安部隊が不当な動きをみせたなら、なにがあっても身体を張ってかれらを守るのだと誓ったそうだ。つまり、わたしたちはもはや誰かの客人となったのであり、その身の安全を守ることは隣人たちの集合的な名誉の問題なのである。

もちろん、そんなことが起こっているとは、当時のわたしたちには思いもよらぬことだった。一週間が過ぎたあたりで、だれかが何の気なしにアミンにもらしたことで、ようやく気づくことができたのである。

撮影クルーの最初の旅の行き先は、農家の広がる町のアラバだった。町の中心にはイスラーム聖戦のポスターと黒旗がそこらじゅうにあったほか、中世のモスクと砦の遺跡があった。最初のうちは、町の人びとから避けられたものとばかり思っていた。家々の窓がどこも閉じられていたからである。しかし、そうこうするうちに、まだ日が高いせいだということに気がついた。その日はラマダンだったのだ。町の人びとは、来訪者に食事をふるまわないことを、もっぱらの恥だとみなしていた。日暮れごろには、どこにお邪魔しても子羊や小麦料理(ペストリー)のごちそうとセージティーのもてなしを受けた。ヘッドスカーフの年老いた女性は、わたしたちのグラスを片時も空にすることなく、庭の椅子に腰かけるわたしたちに、考古学者たちがどうやって古のユダヤ人首長の墓――名前までは聞き取れなかったが、マカベア家だったのではないかと記憶している――を発見したかの顛末と、それ以来、その遺跡が巡礼の場として宣言されたことを教えてくれた。普通なら、こういった遺跡の発見は、町に思わぬ経済的な潤いをもたらしうるものだろう。パレスチナにおいては、こうした遺跡の発見は、ただただ、町ひとつが追い出されることを意味するかもしれないのだ。アラバの町は追放するには大きすぎた。そのため、入植者たちがこの遺跡で追悼儀礼を行うたびに、完全武装で身を固めた何百というイスラエル兵が町まで押し入り、狙撃手たちが屋上に陣取っては町の住民に12時間の外出制限を課してくる。そして、儀礼の終了とともに去っていくのだ。

町の人たちはさらに、入植者への闇討ちを共謀したという嫌疑によって、現在も投獄中だというたくさんの子どもたちがいることについて語りはじめた。

その瞬間、ニューヨークのユダヤ人の家庭のもとに育ち、シオニストのプロパガンダで耳にタコができたわたしのもとに、突然ある考えが浮かんできた。まさしく正反対の視点からは、事態は果たしてどういうふうに見えていたのだろうか。どの旅先でも、パレスチナ人たちは、じぶんたちが歴史的に聖地へと招き入れてきた人間たちについて語っていた。アルメニア人、ギリシア人、ペルシア人、ロシア人、ユダヤ人……かれらはシオニストたちのことは、もともとはみずからの客人として見ていたのである。けれども、それは想像しうるかぎりで最悪の客人だった。あらゆる歓待や歓迎のふるまいは、領有(横取り appropriation)の許可の証として逆用されてしまう。挙げ句の果てには、よりにもよって世界随一の伝道家(propagandists)たちが世界に向かってまくしたてるのである。「じぶんたちの宿主(host)は人ならざる邪悪な怪物で、やつらにホームをもつ権利などないのだ」、というふうに。こんな状態で、パレスチナの人びとになにができるというのだろうか。寛大さを捨て去るのか? だが、それは究極的には実存的敗北を喫したことを意味する。そして、パレスチナ人たちが不名誉なる生(a life of calculated degradation)に思いいたるなかで頭によぎっていたのが、これだった。パレスチナの人びとは、寛大さを示す手段というものを、物理的にも、経済的にも、政治的にも剥奪されてきたのである。そして、そのような壮大なる身ぶり(magnificent gesture)のすべを剥奪されることは、一種の生ける死にほかならない。